家野(よの)(西浦上村 家野郷)三菱船形型試験場付近の郷名

今日は西浦上側にある家野(よの)の地名についておはなしです。

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家野郷といえば、お隣には以前も取り上げやれた浦上山里村側にも家野郷がありました。いつ分村したか年代は不明ですが江戸期には大村藩領の浦上家野村と天領(幕府領)の浦上山里村家野郷へと別れています。

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この西浦上村家野郷側には現在も現役で最大規模の被爆遺構、三菱船型試験場があります。長崎の被爆遺構としていつまでも残ってほしい被爆遺構です。

家野(よの)の地名について考えたいと思います。伊能大図には浦上山里村家ノ郷の標記はありますが、残念ながら浦上家野村の記載はありません。測量日記では浦上街道を通ていますので浦上山里村の家野郷の記載はありますが浦上家野村の記載はありません。また長崎名勝図絵や長崎古今集覧にも山里側の家野の記述は見られる程度です。

由来ですが浦上山里村の家野郷で以前紹介したように大村郷村記に南北朝期の家野因幡権守公平の領地が由来との記載がありますのでこちらが家野自体の由来と思われますが、家野氏がいつから家野姓を名乗り元々の出自がどこなのかは不明なため、当地に土着するようになって家野姓を名乗り始めた可能性も充分あると思います。

ちなみに家野(よの)が正しい音だと仮定した場合は、例えば浦上川が近いこともあり元々は葦のしげる野原であったことから、よしのと呼ばれ、時代とともに短縮され「し」が抜けて「よの」となり当て字に家野と充てられた可能性もあるように思えます。またやはり浦上川(昔は家野川と呼ぶこともあったようです)沿いで水田も多いことから米(よね)の転訛や砂を意味する(ヨナ)の転訛からよの→家野となった可能性もありますが、あくまでも可能性の範囲内で由来の特定することは難しいと思います。

今日は西浦上側にある家野のおはなしでした。

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