写真は田んぼの中にある元は島の前島、元々水田のあった処は下岳浦でしたが江戸文政年間の干拓事業で埋立られ現在の形に
現在も島の雰囲気を残す前島ですが、前島の土も恐らく干拓に使われ当時とは島の形が違う可能性か高いでしょう。
場所は長崎バス内海線の下岳支線大潟~浜河内間に車窓から見える島です。
下岳浦にあった元は島の「前島」の地名について考えたいと思います。
埋立てられた島ですが運よく伊能大図には下岳浦に小さく前島が描かれており貴重です、また測量日記にも前島へ渡る、瀬戸ノ巾十五間。前島は一周三町一尺と当時の島廻も分かり貴重な記述です。(大村)郷村記下岳村には此処先年海にて、前嶋と云嶋ありし所也とすでに埋立後の前島の記述になっています。
地名(島名)の由来ですが恐らく下岳浦の前方(入口)付近にあった島という位置的要因で名付けられた地名と考えられます。
上記写真は1975年に撮影された下岳村下岳郷 前島(西海市西彼町下岳郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。中央付近に前島があります、水田のところは干拓前までは下岳浦だったと推定されます。
今日は西彼下岳にある前島のおはなしでした。
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