現在は軍艦島の見える丘として展望台のある元下二子島、高島炭鉱開発でまず上二子島と埋立られその後、高島本島とも埋立で陸続きになっています。
三菱高島炭鉱二子坑の竪坑櫓址付近より見た下二子、残念ながら炭坑遺構がほぼ残っていません
下二子より見た中ノ島、端島方向、この付近も空中写真や小写真を見ると炭坑関連施設や桟橋等が見られた場所です。
高島の南端より見た中ノ島、端島方向、先端部分は当時の姿が残っています。端島同様、炭鉱のため拡張された島らしい光景です。
高島の小字地名「下二子」の地名について考えたいと思います。
島ですので伊能大図にも記載があり、伊能忠敬測量日記には下二子島一周四町ばかりと記載されています、また長崎名勝図絵や長崎古今集覧には二子島、中島と鷹島の間にあると上二子、下二子両島がひとつの島として紹介されています。
地名(島名)の由来ですが、上二子、下二子が双子のように並んでいたこと、高島本島側から見て下手にあることが由来になっています。
こちらは昭和23年発行の5万分の1地形図よりより恐らく大正期の高島、上双子、下二子島が埋立で一つの炭鉱の島になっている時代、一応高島本島とは築堤で結ばれています。
上記写真は1975年に撮影された高島村 上二子(長崎市高島町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。炭坑時代の高島、元上二子島の西側に竪坑櫓、その先にはボタ山が続いています。また下二子方面に沢山の炭坑関連施設が見えます。
今日は高島にある元島の小字地名「下二子」のおはなしでした。
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