長与道(浦上山里村中野郷 長与道) 永井隆先生ゆかりの如己堂

前の朝ドラ「エール」でも紹介された永井隆先生とその戦後の住まい「如己堂」のある場所が今日紹介する浦上山里村中野郷にある長与道になります。

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如己堂はいつみてもその小ささや狭さに、現代感覚の私は驚いてしまいます。永井先生の本を読むと家族3人で戦後の如己堂での生活がしばしば出てきます。また著作にもたびたび出てくる地名がこの浦上山里村中野郷 長与道です。

ちなみに永井先生は松江市生まれで奥出雲育ちですが長崎医大入学時に初めて長崎に来崎しています。そのときの下宿先が現在如己堂のある場所でその下宿先の娘さんと結婚されています。永井先生の奥様の実家は潜伏キリシタンを束ねる重要な役目を果たした帳方屋敷の血筋の方です。その帳方屋敷のあった場所は当時、長与道ではなく中野郷林であったことが分かっています。帳方屋敷が潜伏キリシタンを守るための屋敷として機能した江戸時代は少なくとも林という地名だったようです。屋敷周辺は林があったことが永井先生の著作にもあるのでその林がそのまま当時の林の地名の由来になったと考えられます。

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写真は如己堂(浦上山里村中野郷 長与道)からみた浦上天主堂方面、小さく浦上天主堂の塔の先端が見えます。ところで去年出た「復元!被爆直前の長崎」にも、長崎の地名では恐らく一番掲載されている「長崎県の小字地名総覧」にもこの長与道の掲載はありません。また浦上街道を通っている伊能忠敬の測量日記にも出てこない地名です。恐らく役所の使う字名としては永井先生の来る頃は廃止されており、昔から使っている住民はそのまま長与道の地名を使用していたものと思われます。

長与道のある場所は浦上街道より少し東側にそれた場所で、戦時中までは長崎工業(現在は南山高校)が近くにあり通学路としても利用されていたようです。さてなかなかてがかりの少ない長与道ですが長崎名勝図絵に長崎の要路の一つ、馬込口の説明に「長崎の北、これを北へ行けば長与道。また浦上土橋に至る。さらに北に行けば時津の港で大村に至る」との記述があり、この記述を見ると少なくとも浦上街道の大橋より長崎方面がある時期に長与道とよばれていた可能性が高いことは伺い知ることはできます。そのことから中野郷の一部にある時期に長与道の地名がつけられたのかもしれません。

なぜ長与道なのか。。江戸時代は主要道路として浦上街道(時津街道)西山街道があり、西山街道は川平のくるまき峠を経て長与にいたりますが、他にも多数の脇道はあったはずで長与道はもちろん長与方面への道を意味しますが浦上街道から長与へ至る脇道への分岐点があったことから名付けられた可能性がありそうです。どこかで浦上川を渡り現在の三宝橋付近からくるまき峠を経て長与へ至る経路が考えられそうです。

今日は永井先生ゆかりの地、浦上山里村中野郷 長与道のおはなしでした。

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